かくかく しかじか帳

藻の、思う・感じる・考えること

大事なのは、自分が何をしたいか

 「お暇、再び」で無職は時間持ちと書いたが、適切な表現ではなかった。自由に使えるお金を沢山持っているお金持ちと対比させたかったのだが、時間は一日二十四時間と全員が同じ量を与えられているもので、そもそもお金とは全く性質の違うものだった。知ったつもりで書いた自分が恥ずかしい!

 

 意図したことを正確に表現すると、自由に使える時間を沢山持っているということだ。

 

 自由な時間が沢山あるということは、基本的にはいいことだと思っている。仕事や家事育児、介護など様々なことに追われて、自分の時間が持てないと嘆く大人も沢山いるだろう。学生も、宿題や習い事で時間がないかもしれない。

 

 労働で時間が取られている場合、無職になってしまえば、その分の膨大な時間が毎日確保できるようになる。いきなり期限のない夏休みが与えられるようなものだ。私も一度目の離職の時は、ウハウハで無敵になった気分だった(スーパーマリオでスターをゲットした時の気持ち)。

 

 一方で、膨大な時間を持て余す人もいる。友だちの友だちで、無職になったが一か月で就職した人がいた。働き出した理由は、いざ時間があっても、何をしたらいいか分からなかったからだそうだ。

 

 その話を聞いた当時の私は働いていて、せっかく時間があるのにもったいない、自分も仕事を辞めて同じようになったらどうしよう、と感じた。しかし、無職になった時私は、これが天職か!と言わんばかりに毎日をエンジョイしていた。

 

 この違いは何だろうか?

 

 私は、普段からやりたいことを見つける習慣があるかの違いだと感じている。私は常日頃から、あれがしたい、これがしたいと、見つけるのが上手いと自負している。好奇心旺盛で、欲深い性格だからだろう。

 

 以前のブログで『ほぼ日でつくる やりたいことリスト』という文章を書いた。ほぼ日手帳のサイトで無料でダウンロードできる「My100」というリストを使って、五年後までにやりたいことを百個書き出した。東京に引っ越してからは、同じ要領で東京でやりたいこと百個のリストを作った。もちろん全部やる必要はない。一個でも、何個でもいい。自分のやりたいことに気づくことがポイントだ。

 

 また、必ずしもやりたいことをやるために、沢山の時間が必要とも限らない。やりたいことが見つかったら、それにどのくらいの時間が必要か見積もる必要がある。気になったカフェがあれば休みの日に行けばいいし、読みたい本があれば通勤時間に読めばいい。

 

 むしろ、やりたいことは細切れにやった方がよいそうだ。最近読んだ『行動経済学が最強の学問である』という本には、次のように書いてあった。

 

 “人は楽しいことも嫌なことも結局、すぐ「快楽適応」する”

 

 快楽適応とは、人は良いことが起きても悪いことが起きても、すぐその状態に慣れてしまって、元の幸福度に戻ってしまうという理論だ。そして、幸福度を上げたいのならば、幸せに思うことをするのは「週末に一日一時間だけ」でいいらしい。

 

 私は今膨大な時間があり、まだウハウハの余韻に浸っているが、いつかは慣れてしまうだろう。真の意味で時間を有意義に使える人は、時間が沢山ある人ではなく、自分の幸せが何かに気づき、コツコツと実行している人かもしれない。